Tuesday, February 22, 2011

チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番


チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番
>> リヒテルの衝撃、カラヤンの存在感
 1962年9月ウィーンでの録音。リヒテルの西側デビューが1960年で、「幻の巨匠」の噂は西欧を走ったが、2年後、その評価を決定づけたのが本盤。カラヤンのバックで、いわばキラー・コンテンツのチャイコフスキーの1番を引っさげての登場だったので話題性は十分。付随的に、カラヤンは当時、ウイーン・フィルとの関係が冷えており、(実はかつてから相性のよい)ウイーン響を使っての演奏。これも「意外性」があって一層注目度を上げた。

 個人的な思い出だが、中・高校の昼休みに毎日、このレコードがかかる。幾度も耳にした演奏だが、いま聴き直すとライヴ的なぶつかり感、「即興性の妙」よりも、リヒテルの強烈な個性と巨大な構築力を、周到に考えぬきカラヤンが追走している姿が思い浮かぶ。カラヤンはEMI時代から、協奏曲でもギーゼキングなどとの共演で抜群の巧さをみせるが、特に本盤での阿吽の呼吸は、ピアニストと共同して音楽の最高の地点に登攀していくような臨場感がある。けっして出すぎず、しかし背後の存在感は巨大といった感じ。だからこそ、リヒテルという稀代の才能の「衝撃」に聴衆の照準はぴたりと合う。これぞ協奏曲演奏の模範とでも言えようか。
>> 全盛期の巨匠同士ががっぷり四つに組んだ記録
 この演奏を聴いたとき私は驚愕した。この曲でこれほど力強く、精緻な演奏が他にあっただろうか。

 カラヤンとリヒテルは知る人ぞ知る二大巨匠であり、20世紀の最高の演奏家と指揮者の一人に讃えられる者たちである。しかし、二人の性格は全く正反対と言ってよく、リヒテルは人間嫌いの内向的で内に倫理的情熱を秘めた人格を持ち、他方、カラヤンは外部の人間を常に意識し、外面的美をひたすら追い求めた人生を歩んだと概して言ってよいだろう。演奏や録音に対する態度などにもありありと表れている。その二人が全盛期に組んだ録音がこのチャイコフスキーのピアノ協奏曲である。

 この録音を聴く前は巨大で奔放で華美な演奏と高をくくっていたのだが、ところがどっこい。とてつもなく巨大で、なおかつ引き締まった精緻な演奏なのである。リヒテルは全盛期の鮮やかな技巧に裏打ちされた覇気のあるピアノで、フォルテやダイナミズムの充実は言うまでもないが、殊に弱音のパッセージや緩徐部分の美しさは息を呑むほどである。リヒテルは弱音が美しいと度々言われてきたが、まさにこの演奏では彼の魅力が見事に開陳している。そして、カラヤンも全盛期の力強く、精緻な指揮でリヒテルと対等に渡り合っている。後年のレガートカンタービレも所々で聞かれるが、曲想を歪めたりはしていない。管弦楽がベルリンフィルではなく、ウィーン交響楽団である事もその一因かもしれない。例えば、第一楽章冒頭の和音も大変鋭いがあっさりしているし、コーダでの盛り上がりもピアノと共に大変冷静である。第二楽章も素朴な牧歌的雰囲気を台無しにしたりせず、ピアノと共に温かなひと時を作り出している。終楽章もはめを外す事無く、充実した音楽を創造している。コーダの部分も幾分遅めにして、じっくりとたたみかける緊張感は有無を言わさず納得するだろう。

 この曲はともするとピアニストの技巧のひけらかしや常軌を逸した爆音に終始する演奏になりがちであるが、リヒテルとカラヤンが堂々と組んだこの録音では互いに個性を認め合って真摯に音楽を作り出そうという気合いが伝わってくる。かくも対照的な人間同士がこれほど完成度の高い芸術を結晶化したという例は滅多にない事であろう。これはこの時点で既にリヒテルもカラヤンも完成された芸術家であった事を示すに足りる記録であるし、全盛期の彼らだからこそ成し得たに他ならない。

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