Well-Tempered Clavier I (Bril)
>> それより深刻なのは、ポリーニの魔術に秒殺された事です。
結局のところ「時の洗礼が人に深みを与える」
・・・こんな表現しか叶わない安っぽさに悲しくなってしまう。
ずっと意識的にスルーをしていたボリー二だが、本作によってようやく邂逅を果たす事ができた。
そんな彼のピアノ演奏から感じたのは
「なんて勿体ない事をしてたのだろう」といった後悔がまずひとつ。
それから続いて・・・
驚く程のクリアな音色や正確なタッチの演奏の流れのなかから彼の鼻歌を通して伝わってくる
愉しげとも緊張の極みとも云えるような空気感が心地よいトランスを創りだしていて、
それらが「平均律クラヴィーア曲集」という楽曲に血を通わせている様に思える
・・・
ポリーニのピアノを聴くという意味では、
自分の場合ショパン:エチュード@ポリーニなどよりも本作の方を早くに聴いてしまっているが、
彼の名声が決定的なものとなった全盛期の演奏も知らないで
本当の意味での「良さ」を本作に限っては理解するのが難しく思えて仕方がなかったので
今頃になってそれらを聴きながら・・・という往生際の悪い事をしている。
( 当時彼のピアノはそれ程の注目を集め、実際世間に「これ以上何を求めますか ?」などと言わしめたらしい。 )
しかしそうまでして感じた事を、誰かに伝えようとする度に語り足りないもどかしさに悩まされながら、
「そんな程度ものじゃない筈」という思いと肩を並べてまたポリーニの「バッハ;平均律〜」を聴いている。
どうやらそれ以上言葉に変換する事をまだ許されていない「残念な人」らしい。
自分が見失っていたものを取り戻さなくては。。。かしこ。
>> 続“初めてポリーニが気に入った”
初めてポリーニを気に入ったという先行レビュアーの方に概ね賛成。
最近、“メイド・イン・チャイナ”のリヒテル『平均律』(1973年インスブルック・ライブ)を聴いたが、やっぱりその荒々しさに辟易した。案の定であり、リヒテルに就いては青柳いずみこのエッセイで印象が変わったにも関わらず、演奏は好きになれない。勿論、あくまでディスク上のことなのだが・・・。
それに較べて、ポリーニには荒々しいところはない。バッハの宇宙をひとつひとつ丁寧に奏しており、作品の構造が手に取るようにわかる。厳しくもあるが、音楽の神秘や切なさ、愁いといった情緒も備わっている。腕に任せてというところが皆無。意外にも。それには少々驚かされた。
当方、ポリーニには偏見を持っていたのかもしれない。
昔聴いた『ハンマークラヴィア』やモーツァルトのコンチェルトの無惨なまでに非音楽的なスポーツ性にウンザリして金輪際聴くものかと思っていたのだが、彼も歳をとったのか?? あるいはこちらが変わったのか?
どの曲がどうだなどと言挙げする必要はない。
ハ長調から始まりロ短調に終わる第1巻の全ての曲が、美しくほぼ完璧な造形で紡がれている。これを昔のように機械的と評するのは当たらない。前奏曲とフーガでトラック2つ、表示番号で10も聴き続ければ、一心に聴き入っている自分に気付くだろう。それは静かな感動であるが、心はそこから熱くなっている。感動しているのである。そう! ポリーニの演奏に感動するなんて初めての体験ではないか!?
最も好きな第1巻最後のロ短調(BWV869)。これのみはいくらかの不満があるが、それは、この曲に対する当方の思い入れや拘り(コトバの正しい意味における)のゆえだろう。
でも、ここで★半分落とし、全体は★4つ半ということで。これは大いに聴くべきディスクだ!!!
近年では、アンジェラ・ヒューイットなどを結構感心して聴いていたが、ポリーニのほうが明らかに上だ。
お見それしやした!! ポリーニは当初イタリア共産党などとも近いサヨクだったらしいが、最近の無惨な世界をどう見ているのだろうか? アントニオ・ネグリとの交流などはあるのかな? グラムシ主義者だった???
>> レビューで叫ばずにいられない。
はじめてポリーニが好きになった。
バラの薫りのような音のゆらぎが、大理石に彫り込まれているかのようだ。
聴き始めると周囲の時の流れは止まってしまう。
美しすぎて息が止まりそうになる。
イタリア風の平均律、フーガとはこんなにも明晰で輝かしいものなのか。
それにしてもゲルマン風は勿論、スラブ風、ラテン風と拡張され、適応するバッハの音楽の凄さ。
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